2012/07/11(水)
出張で金沢へ行った時。 寸暇を惜しんで、近所を散策。

金沢市街、今も流れる大野庄用水。

長町あたりは武家屋敷跡として風情を残し、すごいのは、
この家も
この家も

この通りの家も、全て資料館などではなく、現役の家(普通の民間人のお住い)。
武家屋敷から町家に入る。

ここは、木倉町通り。

(太田本によく登場する)お目当ての「大関」は、あいにく火曜日定休。

ちょいと脇に入ると、
「おっちゃん」もあれば
「おばちゃん」もある。
立ち呑みの生ビールで喉をうるおし、
使った食器を返して
また出陣。
店先を綺麗に掃いてるお店を見つけ、
中は民芸調で
地酒も呑ます。
お造りで呑んで、
ここは、「源左エ門 木倉町本店」。

帰る頃には旦那さんともお友達。 金沢、いいところでした。
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金沢市街、今も流れる大野庄用水。

長町あたりは武家屋敷跡として風情を残し、すごいのは、



この通りの家も、全て資料館などではなく、現役の家(普通の民間人のお住い)。
武家屋敷から町家に入る。

ここは、木倉町通り。

(太田本によく登場する)お目当ての「大関」は、あいにく火曜日定休。

ちょいと脇に入ると、


立ち呑みの生ビールで喉をうるおし、


店先を綺麗に掃いてるお店を見つけ、

地酒も呑ます。

ここは、「源左エ門 木倉町本店」。

帰る頃には旦那さんともお友達。 金沢、いいところでした。
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2012/06/17(日)
仕事で都心に行くことが多くなりました。 皇居(江戸城)周辺の、ホントの都心。
江戸の歴史を伝えようと、行政(千代田区)も頑張ってます。
← 千代田区総合ホームページ から。
結構、こんな「町名由来板ガイド」が建ってます。 歴史好きの親爺、必ず見入る。(笑
江戸城麹町御門は、服部半蔵と伊賀(忍者)衆が警護を担当したので、通称「半蔵門」。
・・というのは、誰でも分かるが、
このあたり、”江戸の町屋ではもっとも古い地区の一つで、幕府の麹御用を勤めた麹屋三四郎が住んだ”から「麹町」・・というのは、知りませんでした。
現代の住民(お店)も、頑張ってます。
江戸風情を少しでも醸そうと、マンションの1階に、こんな風な壁や門。

・・・と、屋号をみてビックリ。

今でも続いているのか!? さすが、江戸は懐が深い。
・・・と思って、家に帰って調べたら、江戸時代の麹屋とはなんの関係もないようで。(笑
なんでぇぃ。驚かすねぇぃ! (と、心の中で、江戸っ子風の啖呵をきって)
でも、町名の由来となった先人にあやかり、その名を残す。 ちょっと、うれしい。
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江戸の歴史を伝えようと、行政(千代田区)も頑張ってます。

結構、こんな「町名由来板ガイド」が建ってます。 歴史好きの親爺、必ず見入る。(笑
江戸城麹町御門は、服部半蔵と伊賀(忍者)衆が警護を担当したので、通称「半蔵門」。
・・というのは、誰でも分かるが、
このあたり、”江戸の町屋ではもっとも古い地区の一つで、幕府の麹御用を勤めた麹屋三四郎が住んだ”から「麹町」・・というのは、知りませんでした。
現代の住民(お店)も、頑張ってます。
江戸風情を少しでも醸そうと、マンションの1階に、こんな風な壁や門。

・・・と、屋号をみてビックリ。

今でも続いているのか!? さすが、江戸は懐が深い。
・・・と思って、家に帰って調べたら、江戸時代の麹屋とはなんの関係もないようで。(笑
なんでぇぃ。驚かすねぇぃ! (と、心の中で、江戸っ子風の啖呵をきって)
でも、町名の由来となった先人にあやかり、その名を残す。 ちょっと、うれしい。
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2011/11/27(日)
色褪せた本がある。

奥付きを見ると「1990年4月10日 第一刷発行」。
この本の表紙を飾っているのが、越後長岡のサフラン酒王、吉澤邸・土蔵の鏝(こて)絵。
鏝(こて)絵とは、民家の母屋や土蔵の壁などに、大黒や恵比寿などを漆喰でレリーフしたもの。左官のこてを使うから鏝絵。
江戸末期~明治の左官 入江長八が有名です。伊豆の長八美術館もある。
日本一の鏝絵蔵と称えられる土蔵・・・それが、長岡にある。

長岡の情熱の酒販店さんに行く途中、無理にお願いして立ち寄っていただきました。
これが母屋の門扉? 今はチェーンで施錠され、開かずの門になってる様子。

荘厳な雰囲気。 ただ、本に紹介されている「ガラス看板」はもう、なかった。
木の支柱がコンクリートの電柱になったか。
<11/28追記>その後、この「サフラン大看板」が修復中なことがわかりました。
(←写真は、NPO法人 醸造の町摂田屋まちおこしの会から借用。)
東日本鉄道文化財団の支援と人々の寄付により修復中との事。良かった、良かった。
もう一つの入口は解放されていて、案内用の看板も立っています。

↑クリックすれば、読めると思います。
そしてこちらが、日本一の鏝絵蔵。(↓クリックすれば、かなり大きくなります。)

屋根の下に、二頭の辰(竜)が吉澤の吉をはめこんだ宝珠を守り、その下には、左右にサフランの花の色の鳳凰。さらにその下には、左にサフラン色の麒麟、右には玄武(神亀)。
正面が東。北側の7面+南側の2面の扉にも鏝絵があります。

子(鼠)に万年青(おもと)、丑(牛)に紅葉、寅(虎)に竹、卯(兎)と月、午(馬)に桜、
未(羊)に芭蕉、酉(鶏)と菊、戌(犬)に牡丹、亥(猪)になんじゃろ? という風に、
十二支と四季を表します。
申(猿)と巳(蛇)がないが、昔はどこかにあったのだろう。鏝絵のアップ写真は2枚だけ。


本の表紙の、打ち出の小槌で小判を振り出す大黒様、どこに居るのか?分からない。
鏝絵は、地元長岡の左官 河上伊吉の作ですが、この人、他に作品も残さず経歴不詳。
鏝絵蔵は、2006年11月 国の有形文化財に登録。2008年12月 綺麗に修復されました。
この土蔵を建てた人物は、(初代)吉澤 仁太郎(にたろう)。文久2年(1862年)生まれ。
サフランは、黄色の染料になるほか、芳香薬、痛み止め、風邪薬、婦人病にも効く。
料理にも使えるこの薬草が日本に入って、サフラン酒とツムラの中将湯(ひいてはバスクリン)ができた。サフラン酒と中将湯は明治期の二大ヒット商品だそうだ。
サフラン酒の生産と販売を家業にした仁太郎は、笑い話のような宣伝で販路を拡げる。
==== 以下、本より抜粋 ====
行商に出かけた町の薬屋に、まず酒の試供品を置いてもらう。そうしてやおら近くの宿屋で腹をおさえて苦しみ出す。
女中がふっ飛んできて手当てしようとすると、「実は最近サフラン酒という薬があって、これが痛み止めになるからぜひ手に入れてくれ」と訴える。
======== ここまで =======
自作自演の芝居で大当たり。サフラン酒は養命酒と二分する人気の薬用酒となり、昭和初期にはハワイまで販路を拡大。越後の田畑を買い集め、”千町歩地主”の仲間入り。
なので、土蔵だけではない。母屋・離れも「サフラン酒御殿」と言われる大豪邸。
←こちらの住居は、公開されていません。
が、土蔵に隣接する店舗からも、その豪華さの一端が窺い知れます。

(二代目)仁太郎は、戦後最初の衆議院議員に当選。その時落選したのが、田中角栄。
当時は千町歩地主だったので、若造の田中角栄なんぞものの数ではなかったらしい。
二代目は体が弱く、次の選挙で長岡の地盤を田中角栄に譲り、それで角さんが当選。
今太閤・平民宰相 田中角栄の生みの親は、サフラン酒王の二代目だったとも言える。
その後は、サフラン酒の販売は斜陽を辿り? 現在に至るのか? 良く分からない。


が、今でもサフラン酒は造っている。古いお客さんから注文があるらしい。
国の登録有形文化財になったとはいえ、土蔵の修復工事は所有者個人の発注。
どれだけ補助が出たのか?分からない。土蔵以外は傷みも目立つ。
サフラン酒王の夢の跡。この文化遺産を今見られたことに、感謝します。
<11/28追記>
(土蔵の修復にも、NPO法人 醸造の町摂田屋まちおこしの会が大きな役割を果たした様子。土蔵だけでなく、母屋・離れの修復と保存も目指してる。いい仕事してますよ。このNPO法人。心強いです。)
【吉澤仁太郎商店 土蔵(機那サフラン酒製造本舗 土蔵)】
・所在地:新潟県長岡市摂田屋4-6-33
・国登録有形文化財:2006年11月29日登録。
・見学:外観の観覧のみ自由。無料。
・注意:駐車場なし。立ち入り許可区域が決められてます。
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奥付きを見ると「1990年4月10日 第一刷発行」。
この本の表紙を飾っているのが、越後長岡のサフラン酒王、吉澤邸・土蔵の鏝(こて)絵。

江戸末期~明治の左官 入江長八が有名です。伊豆の長八美術館もある。
日本一の鏝絵蔵と称えられる土蔵・・・それが、長岡にある。

長岡の情熱の酒販店さんに行く途中、無理にお願いして立ち寄っていただきました。
これが母屋の門扉? 今はチェーンで施錠され、開かずの門になってる様子。

荘厳な雰囲気。 ただ、本に紹介されている「ガラス看板」はもう、なかった。
木の支柱がコンクリートの電柱になったか。

<11/28追記>その後、この「サフラン大看板」が修復中なことがわかりました。

東日本鉄道文化財団の支援と人々の寄付により修復中との事。良かった、良かった。
もう一つの入口は解放されていて、案内用の看板も立っています。

↑クリックすれば、読めると思います。
そしてこちらが、日本一の鏝絵蔵。(↓クリックすれば、かなり大きくなります。)

屋根の下に、二頭の辰(竜)が吉澤の吉をはめこんだ宝珠を守り、その下には、左右にサフランの花の色の鳳凰。さらにその下には、左にサフラン色の麒麟、右には玄武(神亀)。
正面が東。北側の7面+南側の2面の扉にも鏝絵があります。

子(鼠)に万年青(おもと)、丑(牛)に紅葉、寅(虎)に竹、卯(兎)と月、午(馬)に桜、
未(羊)に芭蕉、酉(鶏)と菊、戌(犬)に牡丹、亥(猪)になんじゃろ? という風に、

申(猿)と巳(蛇)がないが、昔はどこかにあったのだろう。鏝絵のアップ写真は2枚だけ。


本の表紙の、打ち出の小槌で小判を振り出す大黒様、どこに居るのか?分からない。
鏝絵は、地元長岡の左官 河上伊吉の作ですが、この人、他に作品も残さず経歴不詳。
鏝絵蔵は、2006年11月 国の有形文化財に登録。2008年12月 綺麗に修復されました。
この土蔵を建てた人物は、(初代)吉澤 仁太郎(にたろう)。文久2年(1862年)生まれ。
サフランは、黄色の染料になるほか、芳香薬、痛み止め、風邪薬、婦人病にも効く。
料理にも使えるこの薬草が日本に入って、サフラン酒とツムラの中将湯(ひいてはバスクリン)ができた。サフラン酒と中将湯は明治期の二大ヒット商品だそうだ。
サフラン酒の生産と販売を家業にした仁太郎は、笑い話のような宣伝で販路を拡げる。
==== 以下、本より抜粋 ====
行商に出かけた町の薬屋に、まず酒の試供品を置いてもらう。そうしてやおら近くの宿屋で腹をおさえて苦しみ出す。
女中がふっ飛んできて手当てしようとすると、「実は最近サフラン酒という薬があって、これが痛み止めになるからぜひ手に入れてくれ」と訴える。
======== ここまで =======
自作自演の芝居で大当たり。サフラン酒は養命酒と二分する人気の薬用酒となり、昭和初期にはハワイまで販路を拡大。越後の田畑を買い集め、”千町歩地主”の仲間入り。
なので、土蔵だけではない。母屋・離れも「サフラン酒御殿」と言われる大豪邸。

が、土蔵に隣接する店舗からも、その豪華さの一端が窺い知れます。

(二代目)仁太郎は、戦後最初の衆議院議員に当選。その時落選したのが、田中角栄。
当時は千町歩地主だったので、若造の田中角栄なんぞものの数ではなかったらしい。
二代目は体が弱く、次の選挙で長岡の地盤を田中角栄に譲り、それで角さんが当選。
今太閤・平民宰相 田中角栄の生みの親は、サフラン酒王の二代目だったとも言える。
その後は、サフラン酒の販売は斜陽を辿り? 現在に至るのか? 良く分からない。


が、今でもサフラン酒は造っている。古いお客さんから注文があるらしい。
国の登録有形文化財になったとはいえ、土蔵の修復工事は所有者個人の発注。
どれだけ補助が出たのか?分からない。土蔵以外は傷みも目立つ。
サフラン酒王の夢の跡。この文化遺産を今見られたことに、感謝します。
<11/28追記>
(土蔵の修復にも、NPO法人 醸造の町摂田屋まちおこしの会が大きな役割を果たした様子。土蔵だけでなく、母屋・離れの修復と保存も目指してる。いい仕事してますよ。このNPO法人。心強いです。)
【吉澤仁太郎商店 土蔵(機那サフラン酒製造本舗 土蔵)】
・所在地:新潟県長岡市摂田屋4-6-33
・国登録有形文化財:2006年11月29日登録。
・見学:外観の観覧のみ自由。無料。
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2011/05/02(月)

GWっぽく、海外旅行の写真・・・と、言いたいところですが、出張時の街角写真です。
デジカメ不調につき、『昔の写真で食いつなごう』みたいなもんです。あしからず。
山間を呑みたおす会(in 押上亭)で、見事撃沈した親爺は不評を買っておりますが、
持参した台湾からすみは、なかなか好評のようでした。
からすみを買ったのはこんなところです。迪化街(てきかがい:ティーホワチェ)。

清朝末期(19世紀後半~20世紀初頭)に繁栄した街で、今も往時の建物が残ります。
お菓子、乾物、漢方薬、布生地などを扱う問屋さんが集まるストリート。
旧正月前には、正月の食材を求めて台北中から買い物客が押し寄せる。
東京でいえば「アメ横」みたいなところ。

騎楼と呼ばれる昔ながらのアーケードに、沢山の店がひしめきます。

そして、ここは「迪化街“歴史街区”」に指定され、街並み見学としても楽しめます。
地下鉄を乗り継ぎ、龍山寺(ロンシャンスー)へ。

台北には、板橋とか府中という駅がある。三重という地名もある。
迪化街がアメ横なら、この龍山寺は「浅草の観音様」のようなところ。

清の乾隆3年(1738年)に建立された、台北で最も古いお寺。
こちらは、狭い境内に参拝の老若男女や観光客がひしめきます。

観音様がご本尊の仏教寺院ですが、極彩色が多用され屋根や柱には龍などの彫刻が隙間なく、道教的なものを感じます。
お寺のHPによれば、1815年の大地震、1867年の台風、1945年の米軍の焼夷弾爆撃と何度も災禍にあっていますが、そのつど庶民の寄付で再建。まさに、庶民信仰の地。
龍山寺を後にすると、すぐ面した道路に「剥皮寮“歴史街区”」の文字。

こうなると、やはり右→方向へ、行くしかない。
どうやらこの一角が、その剥皮寮歴史街区らしい。

剥皮寮とは、その昔、木材の切削加工(木の皮を剥く?)のお店があったからだとか。
剥皮寮の外観(表通りに面したところ)は、

良く保存・修復されている。
清朝時代から日本統治時代の街並みが、奇跡的に完全な形で残ってます。

ここにも再開発の波が押し寄せましたが、この街並みを歴史的遺産として残そうと住民が立ち上がり、現在は台北市郷土教育センターとして、教育&展示施設となっています。
近年、映画ロケに使われたとかで、教育施設というよりも観光スポットになってるようで。
この日も、雑誌のモデル撮影?やら、ウェディング姿の新婚カップルが記念撮影。
中には、こんなチラシが貼られた壁も。 「せめて月二回は!髪を洗って下さい。」

二回でいいのかよ! というか、二回で良かったんだぁ。あの頃は。。
剥皮寮が<過去>の歴史スポットなら、こちらは<現在>の庶民の台所:市場。

その生きた市場近くの路地裏に入り込めば、こんな風。

路地裏に入るともよおす不届き者はどこにもいるようです。
「せめて月二回は!」のチラシのように、この看板も歴史的遺産として残るだろうか。。
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